あふれんばかりの銀鱗。明治期、刺網漁の光景。
岩内の歴史を物語るうえで、何よりもまず欠かせないのが「鰊漁」。明治時代より町の発展の底力となり、そして大正末期に入ってからは全くの不漁、皆無漁となり、町の運命を大きく揺り動かしました。
絵はがき「岩内港鰊刺網沖揚ノ光景」。女の子も笑顔で子守仕事。
鰊漁の漁法は、刺網(さしあみ)と建網(たてあみ)の2種類があります。
写真の刺網漁は、一艘の船に6~8人の漁夫が乗り込み、一家総出で漁をする小規模なもの。漁の時期は、女性も子供も働きました。
雪解けとともに鰊漁の準備は始まります。
冬の間、蔵に入っていた船の搬出。
保津船は船主のいきな趣向で、美しい模様が刻まれています。郷土館にも実際に使われていた船が、屋外展示されています。
一方、建網漁は定置網。一ヶ統35人ほどの人夫を親方が雇い、枠船や汲み船など複数の船を用いて大規模な漁をするものです。
(上は郷土館展示室の「建網模型」)
親方は平均2ヶ統の建網を張り、豊漁の時には純利益で一万五千円、現在の約3億円もの収益をあげていました。
にしん釜、待機。
浜ごしらえ。セイロ(桟橋)を作る。
ローカ(にしん置き場)。
建網漁、準備完了。群来を待つ。
絵はがき「鰊建網沖揚ノ光景」。
多くの雇い人で大量のニシンを陸に上げる。
絵はがき「岩内港防波堤の怒涛」。
絵はがき「岩内港防波堤内鰊舟避難ノ光景」。
明治39年、鰊の漁獲高は26,000t。
翌明治40年より4年の歳月をかけて、灯台を設置した西防波堤と、埋め立てによる船入澗を備えた岩内港が完成します。小さな一地方都市、岩内町の町費による建設工事は、他に例のない国内では初めての事業でした。
ところが、このあとニシンの不漁が続き、町の経済は下降衰退に向かいます。さらにせっかく作られた港は設計段階からの不備が露呈、このあと何年にもわたり追加の工事が重ねられますが、負債だけがどんどん大きくなります。ついに町は国会に陳情を出し、大正8年よりの港工事は国費を投入して行うこととなりました。
大正14年、ニシンの漁獲高、0t。
しかし、次の年は13,000tと、漁獲高は毎年浮き沈みを繰り返しています。ニシンがまったくいなくなってしまう日が来るということなど、まだこの時代は想像もしていなかったかもしれません。
ニシン加工の様子を記録した写真を、集めました。
絵はがき「岩内港鰊ツブシ製造ノ作業」。
絵はがき「岩内港鰊粕製造ノ光景」。
鰊粕(にしんかす)は、大きな釜で炊いた大量のニシンを圧搾、乾燥させて俵に詰め、本州へ輸出し畑の肥料となりました。
特に綿花栽培の畑によく使われており、当時の日本繊維産業の拡大に、鰊粕は大きな役割を果たしました。
漁獲の約7割は鰊粕に、あとの3割が食用でした。
佐藤弥十郎(郷土館初代館長)収蔵、「鰊時代」と題字の書かれたアルバムより。昭和初期の写真も含まれています。
絵はがき「鰊ツブシノ光景(身欠鰊製造)」。
絵はがき「鰊食料ノ分 裂取ノ景」。
食用に加工するニシンは、裂き取り、腹を出して数の子、白子を分け、身はしっぽの部分で繋いで束にして干し、身欠鰊となります。
ベテランの女性で一日に8,000~10,000匹のニシンをさばいていたそうです。
絵はがき「岩内港鰊納屋掛ノ光景」。
岩内でニシン加工が栄えた要因は数々ありますが、そのひとつに広大な「岩内平野」の環境があります。
大量のニシンをさばき、乾燥させて製品にするには広い土地が必要でした。ニシン場親方の経営は自然、大規模化し、町を潤しました。
昭和7年。鰊漁獲高0t。鰊漁の統計は、この年以降「漁獲高なし」もしくは10,000tに満たない数字が続くばかり。ニシンの黄金時代は終わりました。
これは、日本海沿岸の漁業町村、ほとんどが辿った同じ道でした。しかし岩内は、小樽港に次ぐ港を苦難の末に造りあげていたおかげで、次は「スケソ」の全盛時代を切り開いてゆきます。