昭和30年代の岩内 ~子供たち、若者たち~
昭和37年頃~39年頃の「広報いわない」で使用された、数多くの写真の中からピックアップしました。特に、当時の子供たちや若者たちの様子が、明るく生き生きとしていて印象的です。
昭和38年(1963)12月の岩内町は、世帯数5,710世帯、人口は28,114人です。(2022年11月現在、岩内町6,479世帯、人口11,405人)
(左)昭和38年頃。「広報いわない」写真ネガ資料より。
北海道立岩内職業訓練所は、昭和37年4月開所。製缶科、熔接科各40名の青年が入校し、理論と技術を学び優秀な専門職人を育てていました。
この写真で右側の二人は、職業訓練所の様子を取材し「広報いわない」に記事を掲載した岩内一中の生徒です。
昭和38年の「広報いわない」を見ると、一中と二中の中学生が町内の各施設を見学し、写真と共にその仕事内容を紹介する記事が連載されています。
(上)岩内駅構内で駅員さんから仕事の説明を受ける岩内二中生徒。
昭和39年(1964)。東京オリンピック聖火リレー。
東京オリンピック開催にあたり、沖縄県に到着した聖火は9月9日に千歳空港へ到着。飛行機で聖火が空輸されたのは、オリンピック史上初だったそうです。この日から9月17日函館到着までの日程で、北海道での聖火リレーが実施されました。
後志管内を走ったのは昭和39年9月12日、小樽から倶知安まで。
稲穂トンネル国富出口より、後志管内の中高生により聖火リレーが始まります。岩内高校からは向井孝君を中心として、23名の走者が参加。第5区間の2キロを担当しました(『共和町史』より)。
写真の場所は、旧国富小学校です。
(上)昭和30年代後半。当時の岩内西小学校前庭。現在は町民プールになっている場所です。右手に写る体育館は、現在消防署と「働く婦人の家」が建っています。
(上二枚、左)円山スキー場。現在の円山遊歩道の北側にありました。
昭和37年には、念願のヒュッテも完成。左の写真で、山頂付近に人影が規則正しく連なって見えるのは、ロープトウで上っている様子でしょうか? 当時の詳細を知る方、ぜひ教えて下さい!
昭和39年7月、岩内神社外苑に、町民プールが完成しました。大喜びの子供達です。
当時の「広報いわない」によりますと、別紙刷りで「岩内町営プール建設についてお願い」という教育委員会とプール建設期成会で作成した文書があり、建設にあたり文部省の助成を受けると同時に、町万代の「水戸地下工業所」の水戸友吉氏から、シャワーなど給水設備建設のすべて(当時の約50万円)を寄付されたという記事が残されています。
(下)昭和39年。岩内青年会議所により、雷電ウエンドマリの雷電小学校跡地に作られた「雷電バンガロー村」。鉄骨にテトロンテントを張ったバンガローが5棟設置され、キャンプを楽しむ若者たちの人気スポットとなりました。
(右)昭和38年、雷電国道が岩内から寿都まで開通し、雷電温泉郷の開発が一気に進み始めました。海岸では、海水浴場も整備され、貸しボートもありました。国定公園にも指定された雷電刀掛岩周辺で、手つかずの自然を満喫するレジャーが全盛の時代です。
(右、下)昭和30年代後半。大浜保育所か。現代と比べて子供の数が多いですね!