昭和13年8月。町内各所で行われた防空訓練。本部の様子。
防空訓練「治療班」。
防空訓練「防火班」。
昭和13年5月。児童愛護の夕べ。
左写真の裏書、当時の浅野目町長など、町の重要な人物が勢ぞろいしています。
同じく、防空訓練「炊事班」。
昭和12年(1937)7月7日、支那事変勃発。20日後の27日、旭川第七師団への充員召集下令が下り、この日岩内町では56名が召集令状を受けました。
明治37年日露戦争以来の召集であり、戦時下を実感した岩内町。緊張感に町中が包まれます。その翌年、空襲に備えるためこの訓練が実施されます。空襲などかつて経験したことなどなく、写真の人々はどこか、お芝居がかっているようにも感じられます。
岩内駅より出征。
戦時中銅鉄回収。第十四町内会。
終戦間近い昭和19年、岩内町は3機の艦上戦闘機を海軍省に献納しました。(第一~第三岩内号)
昭和18年3月。金属回収の様子。
昭和10年。旭川第七師団の秋季演習記念写真。背後の「分会堂」は、現在の中央通りに建っていました。
岩内駅前、戦死を遂げた岩内出身兵士の遺骨が帰還。町をあげ大勢で出迎えます。
大火前の初期の岩内駅舎と、当時の駅前通りの広さ、建物の様子なども見られる写真です。
上と同じく、軍人の遺骨が凱旋帰郷したときの様子。
昭和17年11月。軍人遺族慰安会。二葉座の劇場内を埋め尽くす人数の、軍人遺族が集まった。
上は帰厚院に開設された、岩内町第一託児所。右は本弘寺の第二託児所。
写真中央に写る、当時の岩内町長浅野目浦吉氏は、昭和七年から二十二年まで、四期15年間の長きにわたり岩内町長をつとめた方です。
当時の消防本部(現高台の佐藤生花店付近)。左手には白い奉安殿が建っています。
昭和13年10月。新築小学校上棟式。
当時の岩内尋常高等小学校(東・男子校)が、分校を新築することになり、現・岩内町民センターの場所に建てられました。
左の男子校分校の南側、同じ昭和13年に竣工した町営グラウンド。
整地費用は当時の約1万円。7千坪の面積。自然スタンドをも構築して、当時地方では稀に見る野外運動場と評判になりました。
昭和10年代、大東亜戦争のさなか、岩内町鷹台通り(現国道229)の正月風景。
左ののぼり旗は、映画館「萬生座」。現在のホテルENVYさん付近です。
終戦直後の昭和20年代。岩内駅前通りの様子。
看板の文字が左側からのものと、右側からのものが入り混じっています。
昭和21年、米進駐軍が岩内に駐在。町内「南河旅館」を宿舎にして、星条旗を掲揚しました。
昭和22年。戦後の一斉選挙が行われ、2月占領軍の指示により、戦時中の責任を問われる形で、公職追放が執行されます。
当時の町長浅野目浦吉氏、警察署長工藤源次郎氏、道議会議員佐藤弥十郎氏、翼賛壮年団長黒田東作氏、そして在郷軍人分会長佐藤猶徳氏の5人で、いずれも昭和26年に追放解除。その後も町内や各地で大きな職責を果たした方々です。